スポンサーサイト
新しい記事を書く事で広告が消せます。
美菜子の恋
Body ZoneⅠ
美菜子の恋
プロローグ
俺が、まだ小さかったとき、近所にボクシングジムがあって、よくそこを覗いた。
小さなジムだったが、そこに1人、世界ランカーがいた。名前は…いや、伏せておこう。
ライト級の東洋・太平洋チャンピオン、通算戦績 28戦、26勝(20KO)2分け。見事な戦績だった。
当時、世界チャンピオンに最も近い男と言われていた男だ。
身長は173cm、さほど大きいわけではない。華麗なステップを踏み、パンチをかわす。試合前も試合後も同じ顔をしていた。
ボクシング好きの親父に連れられて、俺も何度か、奴の試合を見た。
確かに、すごかった。
とにかく奴にはパンチが当たらない。
やつは、ほとんど全てのパンチをほんの数センチ、いや時には数ミリのところでかわし続ける。
逆に奴のパンチは、パチンパチンと軽い音を立てて、相手の顔面をたたく。
空振りは体力を消耗させる。打ち疲れた相手の体力が切れるとき、試合は終わる。
試合後、奴はすぐに出てくる。
スーツを着、来たときと同じ格好で出て行く。
ボクシング小僧のあこがれではあったが、皮肉れ者の俺だけは違った。
「こいつの倒れるところが見たい」、そう思ったが、口にしたことはない。
それは、世界戦へのステップに過ぎなかった。
誰もがそう思った。
ノンタイトルの試合だが、奴はなにしろ、無敗だ。マスコミがにぎやかになった。
相手は、世界ランカーではあるが、もう、とっくにピークは過ぎている。
ずんぐりした体格、背も高くない、ハードパンチャーではあるが、足が使えない。
前へ前へ、ただ出るだけの男だ。こいつのパンチが当たるとは、だれも思っていなかった。
実際、当たらなかった。
序盤3ラウンド、男は、いいようにあしらわれた。右に左にかわされ、パンチは全て空を切り、逆に顔面に鋭いジャブを、何発も浴びた。右目がみるみる腫れて、別人と化した。
第5ラウンド、ブーイングが起き始めた。「早く倒せ」という声が四方八方から沸きあがる。
そのとき、奴は脇に一発もらった。
奴の自慢のボディだ。どんなパンチにも耐えられるはずだった。
過信していたのかもしれない。なに食わぬ表情が、逆に、そのパンチの威力を物語っていた。
足が、徐々に止まった。
第7ラウンド、奴はとうとうコーナーに追い詰められた。
それでも、左のストレートを当てて、左に逃れる。
男のボディへの攻撃は、執拗だった。
両目はパンパンに腫れ、ほとんど見えていないと思われるのに、男はそれでも前へ出た。
恐怖。奴が感じた初めての恐怖。
奴は、なりふりかまわず、ひたすら打ち続けた。
冷静さを欠いた。
奴のパンチが、空を切り始めた。
逆に男のパンチは、奴のガードの上から、ビシビシッと音を立ててボディに食い込んでいった。
客席からやじが消えた。
第9ラウンド、ポイントでは、圧倒的に奴のものだ。
打ち合うなという指示は、6ラウンドから出ている。勝つためには、打ち合わないことだった。
しかし、奴は足を止めて打ち合った。
プライド?そんなかっこいいものじゃない。
ただ、怖かっただけだ。殴っていないと、怖い。それだけのことだ。
しかし、男は倒れない。殴られても殴られても、前に出てくる。倍ぐらいに腫れ上がった顔で…。
第10ラウンド、奴は思った。
(これで終わりだ。みっともなくてもいい。とにかくこのラウンドさえ乗り切れば…)
しかし、遅かった。足が動かない。
来た。また、ボディだ。
奴は、いいかげんにしろと思った。もううんざりだった。
口の中は逆流した胃液でいっぱいだ。
奴は男の腕を抱えた。反則だ。
しかし、そんなこと、もうどうでもよかった。レフリーが割って入った。
リングの中央へ、背中を押された。
(えっ…)
その瞬間の、奴の顔は、今でも忘れない。幽霊でも見たような顔だった。
奴は下を向いた。前に出したはずの左足が、出ていない。
前に流れる上体を、右足が支えられない。
膝が折れる。
信じられないという表情で、崩れるように奴はリングに沈んだ。
腹を抱え、くの字になって横たわった。
そして、信じられないという表情のままテンカウントを聞いた。
奴が初めて、倒れたまま聞いたテンカウントだ。
そして二度とそれを聞くこともなかった。奴のボクシング人生は、そこで終わった。
随分経って、それでも奴は、来たときと同じ格好で、スーツを着て、出てきた。
顔は打たれていない。いつもと同じだ。
違うのは、やつの左手が、腹に当てられ、腰をかがめて歩いていることぐらいだ。
トレーナーが2人、両脇についていた。
俺の名は、工藤俊哉。
信じられないという表情で、崩れていく奴の顔を今でも覚えている。