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知美の恋人1-1
知美の恋人
第一章
1.辰夫
知美は、塾の授業が終わってから駅近くの古本屋に寄った。
探している本はなかったが、それはそれでかまわない。
知美は、CD、DVD、ゲーム、コミックとゆっくり見て回る。
まだ、時間はある。
今日は、帰っても誰もいない。
知美の両親は、長い間別居していたが、今年の初め正式に離婚した。
父親は歯科医を開業している。
別居というより、父親が歯科技工士の若い女と別の家で暮らし出したというのが正しいが、父親の一方的な浮気というわけでもない。
母親の佳美は、ホテルで働いている。
経済的には佳美が働く必要などなかったのだが、佳美は仕事を辞めなかった。
妻が家庭に入らなければならないわけでもないが、両親共に忙しい家庭のしわ寄せを知美は背負わされた。
知美に何かがあると必ず喧嘩になる。
病気にでもなろうものなら最悪だ。
父親は、母親にお前が仕事を休んで看病しろといい、知美は病気の間中ずっと母、佳美の愚痴を聞かされた。
知美の誕生日に佳美は残業で遅く帰って来たことがあった。
また喧嘩だ。
いつしか知美は、両親と話をしなくなった。
9時40分
そろそろだ。
(来た)
知美は、急いで店を出た。
「先生」
知美の声に辰夫が振り返った。
「桑田」
「先生、帰るところですか?」
知美は、小走りに距離を詰め、辰夫の横に並んで声をかけた。
「ああ、帰るとこだけど…、お前、何してんの?」
「ちょっと、本屋さん」
「そう」
駅に着いた。
「お前も電車か?」
「うん」
「家はどこ?」
知美は、自分の家の最寄りの駅名を言った。
ここからは5つめの駅だ。
「えっ、そんなとこから通ってんの?」
高校部の生徒や有名中学を目指す小学生なら、かなり遠くからも通って来るが、中学生の塾は駅ごとにかなりある。
駅5つも離れたところから通ってくる生徒は、そうはいなかった。
「先生は?」
辰夫の答えた駅は、知美の隣駅だ。
「近い。もしかしたら、どっかで会ってたかもしれないですね」
「そうかもなぁ。俺のところは、知美の駅からでも歩いて15分か20分くらいだから」
「もしかして南口です?」
「そう、南口だよ」
辰夫も少しおどろいたように答えた。
「わたしのとこは、歩いて12~13分ですけど…。もしかしてご近所さんだったりして…」
「かもね?」
知美は、さらに辰夫が身近に感じられた。
「そうだ、先生、今日、遅いから、わたしを家まで送ってくれませんか」
ほとんど、何も考えず、知美は思い付きを口にした。
「えっ?歩くのか?20分も…」
「だって、途中、公園の横、暗いでしょ。痴漢が出るって看板あるし…」
勢いで、知美はしゃべった。
「いいよ、わかった。送ってやるよ」
(うそ?…いいの?ほんとに?)
電車が入ってきた。
電車の中で、知美は、じっと、辰夫を見ていた。
辰夫は、知美に話しかけないし、知美も黙っていたが、知美の降りる駅で辰夫は、約束どおり、知美といっしょに電車を降りた。
「ほんとに、送ってくれるとは思わなかった」
「なんだよ、それ…」
「ううん、嬉しいんです。ありがとうございます」
「どういたしまして…・」
改札を出て、また辰夫は黙って歩いた。
「ふだんはしゃべらないんですね?」
知美のほうから話しかけた。
「なんで?・・・あっ、電車の中で黙ってたから?」
「うん」
「電車の中って、いろんな人に聞かれるからね。お前、俺を先生って呼ぶだろ?」
「うん」
「こんな時間に、先生と生徒が、二人で電車に乗ってるってのもね…」
「それも、そうだね」
「こっちで、いいの?」
知美は、何も言わずに知美と一緒に歩いてくれる辰夫に訊いた。
知美は、自分の家に向っているが、辰夫の家がその方向にあるとは限らない。
「ああ、こっちからでも問題ない」
公園横を抜けて、知美の家に着いた。
「先生、うちここだから、ありがとう」
「あっそう…じゃぁ」
辰夫は、すぐに歩き出した。
知美は、しばらく辰夫の後姿を見ていた。
辰夫は、最初の角を左に曲がった。
(ああ、やっぱり、遠回りだったんだ)
知美は、辰夫の後を追って歩き出した。
どのくらい遠回りさせたのか、確かめたかった。
(すっごい遠回りだったら、どうしよう…)
7、8分歩いただろうか、辰夫が、マンションに入っていった。
知美が心配するほどでもなかった。
通り1本、線路よりだっただけで、時間で言えば、1分か2分の問題だ。
(こんな近くに住んでいたんだ…)
知美は、ほっとして、来た道を戻って行った。
知美の恋人1-2
2.また、行ってもいい?
受験生に冬休みはない。
塾の冬期講習は、午前中で終わるのだが、知美は、受験生のために開放された自習室で時間を潰し、辰夫が帰るのを待った。
「先生」
知美は、辰夫を追いかけ、並んで歩く。
「あぁ、知美…帰るのか?」
「うん。一緒に帰っていい?」
「ああ、いいよ」
「家まで送ってくれる?」
「なんで…暗くないだろ」
「うわぁ、冷たい、いいじゃん、どうせ帰り道なんだし」
「帰り道じゃねぇよ」
「ひどーい」
知美は、ふざけて辰夫の腕を取った。
「わかった。送るから、手を放せ」
辰夫は、また、知美といっしょに帰った。
「おい、こっちだろ」
知美が、違う道を通った。
「いいの。先生、こっちのほうが先生のマンションに近いでしょ」
「マンションって…なんで、うちを知ってる?」
「知ってる」
「だから、なんで?」
「教えない…ねぇ、先生のとこ行っていい?」
「えっ?」
「先生、三国志の本貸してくれるって言ったでしょ」
「そうだっけ?」
「うわぁ…ひどい。忘れてる」
知美は、また、辰夫の腕を取った。
「わかった、わかった。じゃぁ、寄るか?うちに」
「うん」
意外にも、辰夫は、あっさりとOKした。
「うわぁ、なにこれ…すごい」
辰夫のマンションは、入るとすぐにリビング・ダイニング、隣がバス・トイレ、奥に寝室という1LDKだ。
一人暮らしのようだが、意外にきれいに片付いていた。
知美が驚いたのは、リビングの壁いっぱいに並んだ本。
「先生、これ、全部読んだの?」
「一応」
「どのくらいあるんですか?」
「1,000か2,000…か、もっと…」
「何、そのアバウトなのは…」
「数えたことがない…ああ、でも、半分くらいはコミックだよ」
そう言えば、カラフルな背表紙の本棚もあった。
「コーヒー飲めるか?」
辰夫がキッチンに立った。
「はい」
返事はしたが、苦いのは苦手だ。
「ねぇ、先生、これ、ちょっと見ててもいいですか?」
知美は、自分も読んでいるコミックの最新刊を見つけて、書棚から取り出した。
「ああ、いいよ」
辰夫は、コーヒーを入れ始めた。
「先生、一人暮らし?」
コーヒーを持ってきた辰夫に知美は聞いた。
「ああ、一人暮らしだ」
「彼女いないの?」
「いたけどね…別れた」
「振られたの?」
「そうだなぁ…たぶん、そうだ」
「何、また、アバウトな」
辰夫は、本棚から、文庫本の三国志を取り出すと、知美の前に置いた。
「これ」
「ありがとうございます…。ねぇ先生、これ読んでていい?」
知美は、書棚から数冊のコミックを持ち出した。
「ああ、いいよ」
辰夫は、知美にリビングのクッションを占領されて、キッチンの椅子でコーヒーをすすった。
冬の日は短い。
1時間もすると、外は急に暗くなる。
「知美、そろそろ、帰りな。遅くなる」
「やだ。まだ、読みかけなんですぅ」
「それも貸してやるから」
「もうちょっとだけ…」
床に座り込んだ知美の横に辰夫が来た。
「だめ、もう6時を過ぎた」
辰夫は、知美を立たせようと、知美の両腕をつかんだが、知美は立たない。
「知美…」
困ったような表情で、辰夫が知美を見た。
その辰夫の表情を見て、知美は立ち上がった。
(あーあ、相手にされてない)
がっかりした知美は、立ち上がって、貸してくれるといった三国志の文庫本だけを手提げの袋に入れた。
「わかった。帰るよ。じゃぁこれ、貸りるね」
知美は、低い声で、ぼそっと呟いた。
今まで読んでいたコミックを本棚に返すのを見て辰夫が声をかけた。
「それは、いいのか?」
「コミックなんか読んでると、お母さんに怒られる。“マンガなんか読んでないで勉強しなさい”」
最後は、おそらく母親の口調を真似たのだろう。
玄関で、先に辰夫が靴をはいた。
「出かけるの?」
「送っていく」
「わたしを?」
「まぁ、ちょっと買い物もあるから」
「ごめんね」
「何が?」
「じゃまして」
「別にじゃまじゃないよ」
しゃがみこんで靴を履いていた知美に辰夫が手を差し出す。
辰夫に手を握られた。
(優しいな)
歩くときも、辰夫は常に車道側を歩いた。
知美の家の数十メートル手前で辰夫は立ち止った。
「知美、じゃぁ、またな」
にっこり、微笑みながらそう言う。
「また、行ってもいい?先生とこ」
「ああ、いいよ」
「明日でもいい?」
「いいよ。いつでもいい」
嬉しい返事が返って来た。
知美の恋人1-3
3.恋人?
次の日も、知美は辰夫の部屋にいた。
知美は、昨日読みかけだったコミックの続きを全巻本棚から取り出して、積み上げた。
「知美。マンガ読んでる場合じゃないんじゃないか?」
辰夫は、昨日と同じようにコーヒーを入れながら、知美に言った。
明日は、塾の模擬テスト。
確かに、マンガなど読んでる場合ではないが、それを他人に指摘されるとむっとする。
15歳というのは、そういう年齢だ。
ただ、辰夫の言い方は優しかった。
同じセリフでも母親の佳美とは大違いだ。
「今日の明日で、なにが変わるってわけじゃないし…」
「1日に1ミリ背が伸びたとしよう。1ミリなんて誰も気づかない。10日で1センチ、1ヶ月で3センチ、1年で36センチ、10年で3メートル60センチ」
「ない、ない、ない」
「1日に1グラム痩せたとしよう」
「何が言いたいの?」
「1グラムなんて誰も気づかない。10日で10グラム、1ヶ月で30グラム、1年で360グラム、やっぱり誰も気づかない」
「いやなやつ」
「本当のことだ」
「自分はどうなのよ。コツコツは性に合わないって、このあいだ授業中に言ってたじゃない」
「そうだっけ?」
「そうよ」
「まぁ、人それぞれだから…」
「いいかげん。でもさ、なんでわざわざ24日に試験するの?」
受験生、最後の模擬テストは、毎年12月24日に行われる。
「受験生にクリスマスも正月もないっていうことだろ」
「最悪」
「俺もそう思う」
「だよね」
辰夫は、テーブルにコーヒーを置くと、クッションに寝そべっている知美の横に座った。
「ちょっと横によってくれ」
「なによ」
「寝っころがりたい」
「しょうがないなぁ」
知美は少し横に寄った。
辰夫は、横になるなり目を閉じた。
(眠るの?)
しばらくすると、辰夫の首が少し傾いた。
(マジで寝ちゃった?)
知美は、辰夫を押しやるように腕を辰夫の肩に当てたが、反応はない。
(うそ、本当に眠っちゃった)
よっぽど眠かったのだろう、辰夫はすぐに眠ってしまった。
知美は、辰夫の顔をじっと見つめた。
男性の顔を、こんな近くで見たことはない。
かっこいいわけではない。
意外と鼻は高い。
髭は濃いほうかもしれない。
知美は、辰夫の横で同じように寝そべってみた。
先生と生徒の距離ではない。
胸が高鳴った。
ふーっ
マンガなど読んでる場合ではなくなった。
知美は、辰夫の腕を取って腕を体から離し、その腕の付け根にそっと自分の頭を置いた。
辰夫の腕の中。
距離はいっきに彼と彼女の距離。
痩せてると思っていた辰夫の腕はけっこう太く、胸も広い。
知美も目を閉じてみた。
辰夫の小さな寝息。
辰夫の体のどこか奥のほうから、かすかにドクン・ドクンという脈動が聞こえる。
心地よかった。
眠いのは辰夫だけではない。
受験生というやつは、慢性的に睡眠不足だ。
知美は、襲ってくる睡魔を妨げようとはしなかった。
このまま眠ってしまったほうがいいような気がした。
「知美、起きろ」
辰夫の声で、知美が目を覚ますと、辰夫の顔が目の前にあった。
「ごめん。もう7時だ。送ってくよ」
「いいの」
「何が?」
「遅くても平気なの」
「そっちがよくてもこっちは困る」
「困るの?」
はっきりそう言われると傷つく。
「困るってのは、嫌だってことじゃなくて、親に心配させるだろ」
「しないよ」
「だから、お前の親が心配するしないは問題じゃなくて、俺が、親を心配させるような非常識な人間だと思われるっていうこと」
「自分のことを心配してるわけ?」
「違うよ」
(えっ、何?)
辰夫にぎゅっと抱きしめられた。
「非常識な人間だと思われると、お前に会うことが出来なくなる」
(えっ…えっ…えっ…、わたしに会いたいってこと?)
「だから、帰ろう」
「わかった」
「送るよ」
「いいよ。誰かに見られると困るでしょ」
「そう?じゃぁ、気をつけて帰れよ」
「うん。ねぇ、明日もいい?」
「明日は、試験の採点だから」
「そっか。じゃぁ、明後日」
「ああ、いいよ」
恋人のような会話。
そんな会話が嬉しかった。
知美の恋人1-4
4.佳美
「知美さんの国語を担当している武田といいます。すいません、こんなところに呼び出して」
「知美がお世話になっています」
辰夫は、知美の母、佳美に会うのは2回目だ。
年度初めに催された保護者懇談会の時に一度会っているが改めて名乗った。
「本来、塾でお話しするのが筋なんですが、申込書の住所がうちの近所だったもので、わざわざ塾に来てもらうより、近くで話したほうがいいかなと思いまして」
辰夫のマンションに程近いコーヒーショップ、馴染みの店だ。
「で、知美が何か?」
「成績がどうっていうことじゃないんです」
辰夫は少し間をおいて言葉を選んだ。
「最近、知美さん、なんかちょっと変かなって思うことがあって…。なかなか帰らないんですよ。授業が終わって、今は受験生に教室を一部屋解放して自習室として使ってもらってるんですが、その自習室が閉まっても空いている教室にいたり、塾を出ても、駅周辺の本屋さんにいたり…」
佳美の表情には変化はない。
「家に帰りたくないっていうような感じなんですよ。自習室でも勉強してるわけじゃなくて本読んでるみたいだし…、別に悪いことしてるわけじゃないので、とりたててどうって言うほどのことでもないんですが、大事な時期ですし、お母さんの耳には入れておこうかと思いまして…」
「そうなんですか…。まぁ、わたしが仕事で帰りが遅いので、早く帰ってもひとりですし…、それで…かもしれないですけど…」
“知ってます”という感じの答えだ。
「知美さん、お母さんとよく話をしますか?」
「は?知美が何か、そんなことを言ったんでしょうか?」
「すいません、不躾に…。いえ、知美さん、ご両親のことはあまり話しません。授業が終わるとよくわたしのとこに来て質問したり、学校であったこと、友達のこととかいろんな事を話してくれるんですが、ご家族の話題はないんです。それが気になりまして…」
「はぁ」
佳美の表情が曇った。
「すいません。顔を合わす時間もあまりないので…」
「いえ、そんな深刻なことでもないとは思うんですが、やっぱり親子は仲がいいほうがいいですし、溝みたいなものがあるんだとしたら、浅いうちに修復したほうがいいでしょうし…。まぁ、わたしなんかがおせっかいに横から口を出すようなことでもないかとは思うんですが」
「溝…」
佳美は、聞き取れないくらいの小さな声で辰夫の言葉を繰り返した。
「あのぉ、知美さん、お父さんとはどうなんですか?」
「えっ…」
「いえ、彼女のわたしへの接し方は、他の子とはちょっと違うような気がして…。何て言うか、お父さんみたいな感じなのかなって思ったもんですから…」
「実は、離婚したんです」
「あっ…、すいません。何も知らずに余計なことを…」
「ずっと別居みたいなものだったので…」
佳美はうなだれてしまった。
「そうなんですか」
辰夫は、周りをうかがった。
辰夫には馴染みの店だ。
ここで泣かれるのは、正直、困る。
「あの、お母さん、ちょっと場所を変えさせてもらっていいですか?」
佳美も察したのだろう。黙ってうなずいた。
店を出たところで行く場所もない。
「もう少し、彼女のこと聞きたいんですけど…。わたしのマンション、すぐそこなんですが、よかったら寄ってもらえませんか?」
「いいんですか?」
逆に佳美に聞き返された。
「こちらこそ、ちらかったところですけど…」
「知美には悪いことをしました」
歩きながら、佳美が話し出した。
「それは、わたしの部屋で話しましょう」
辰夫は佳美の話をさえぎった。
また、泣かれてはかなわない。
部屋に入るまで無言で歩いた。
玄関を入ると、すぐにバスルーム。
洗面台は、バスルームの中だ。
「顔を洗うのはここです」
辰夫は、バスルームの扉を開けた。
「タオル、新しいのを持ってきますから…」
佳美は、辰夫が自分をマンションに案内した理由にやっと気づいた。
「ありがとうございます」
「シャワー使ってもらってもかまいませんよ」
それほどひどい顔になってるのかと思うと、佳美は急に恥ずかしくなって、急いで鏡を覗き込んだ。
もともと仕事帰り。
急いでいたのでメークを直してはいなかった。
そこにいく筋かの涙が、化けの皮をはがしていた。
30代後半。
自分の年齢を思い知らされる瞬間だった。
洗い流したいと思った。
“シャワー使ってもらってもかまいませんよ”
辰夫の言葉が心にしみた。
「あのぉ、ごめんなさい。シャワー使わせてもらっても…」
「どうぞ」
辰夫は、すぐ後ろで新しいバスタオルを持って立っていた。
「すいません」
「いえ、わたしが変なことを言ったせいですから…」
「コーヒーどうぞ」
メークを直した佳美に辰夫はコーヒーを差し出した。
「ごめんなさい、さっきは取り乱してしまって…」
「いえ、わたしが変なことを聞いたからいけないんです。すいません」
「先生の言う通りなんです。もう、ずっと知美とは話をしてません」
「そうなんですか?」
「どうしていいかわからなくて…」
「お母さん、名前で呼ばせてもらっていいですか?」
「は?」
「なんか、お母さんって言うのが照れくさいんです。わたし小さい頃に母親をなくしまして、だから、お母さんって呼んだことがないんです。言い慣れてないもので、どうも、なんか…」
「ご病気か何か?」
「いえ、交通事故だったらしいです。わたしは小さかったので後から聞いた話です」
「そうですか…」
「で、佳美さんって呼んでいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「ありがとうございます。本当に失礼だとは思うんですが、佳美さん、再婚とかは?」
「えっ」
佳美は驚いて声が高くなった。
「いえ、でも、どうしてそんなことを?」
「ずっと別居状態だったって…」
「はい」
「それが正式に離婚なさった」
「それでわたしが再婚すると?」
「余計なお世話で申し訳ありません。再婚なさるにしてもできれば、知美さんの受験の後でと思ったものですから」
「そんなこと…ないです。再婚なんか…」
「ごめんなさい。気を悪くしないでください」
「いいえ。娘の心配をしてくださって、こちらこそ…」
辰夫の気配りに安心したのか、佳美は、辰夫に聞かれるままいろんなことを答えた。
「無理にコミュニケーションを図ろうとしないほうがいいです。彼女はわたしにはいろいろ包み隠さずいろんなことを話してくれるので、しばらく、受験が終わるまでは、こんな感じでいきましょう。何かあったら、佳美さんにはわたしから連絡しますから…」
そう言って辰夫は佳美を送り出した。
離婚の原因は夫に愛人が出来たからだと佳美は答えた。
が、それよりも前に既に別居している。
その理由は答えなかった。
家庭よりも仕事を優先する女には見えなかった。
元ご主人は歯科医で、経済的に困ってもいない。
そんな女が夫と別居までしても仕事を辞めなかった理由。
よく知らない男の部屋でシャワーが使える女。
男がいるのか?
知美の恋人1-5
5.お母さん、Mなの
孤独というのは、そこに居座ってしまうと、けっこう居心地のいいものだ。
クリスマス、若い男女が行き交う街を辰夫は一人で歩いた。
特別な演出は好きではない。
自分の気分は自分でコントロールする。
周りに左右されたくはない。
そんな意固地な面を辰夫は持っていた。
夜、8時、仕事を終えて、辰夫がマンションに帰るのとほぼ同時に携帯にメールが入った。
知美からだ。
“先生のとこに行っていい?”
タイミングが良すぎる。
“今、どこにいる?”
“近く”
そんなことだと思った。
“来てもいいよ”
近くで、辰夫の帰りを待っていたに違いない。
2分後、ドアのチャイムが鳴った。
「ごめん」
知美はドアの外で謝った。
「中に入れ」
辰夫は知美の手を取った。
冷たい手だ。
「まさか、お前、外で待ってたのか?」
知美は答えない。
帰って来たばかりで、部屋の暖房もまだ十分にはきいていない。
辰夫は、黙って座り込んだ知美をぎゅっと抱きしめた。
何があったか知らないが、わけを聞くより大事なことがある。
電気ポットのお湯が沸くまでの時間、辰夫はじっと知美を抱いていた。
「コーヒー飲むか?」
「うん」
辰夫はコーヒーを入れに立った。
「どうした?何があったんだ?」
「お母さんと喧嘩した」
「何で?」
「なんか、急に話しかけてきて…」
(無理に話すなって言ったのに…)
辰夫は、知美のコーヒーにミルクをたっぷり入れて知美の前に置いた。
「うちの親、離婚したの」
「そうなのか?」
「でね、その話をするの。ごめんねとかって…」
謝っていいことと悪いことがある。
謝るというのは、許してくれということだ。
許しの強要だ。
許せないことで謝られるのは迷惑だ。
「わたしがいたから、ずっと我慢してきたけど、やっぱりだめだったって…」
知美は、コーヒーをすすった。
「わたしがいたから我慢してきたなんて、よく言うわ。なにもかもパパのせいにして、自分だけいい子になって…。自分だって男がいるくせに」
(やっぱり、男がいたわけだ)
「お父さんにもいるのか?」
「いるわ。他の女と暮らしてるわ。だいぶ前から…」
「お母さんは、最近なの?」
「ううん。たぶん、お母さんのほうが先よ。我慢してたのはパパのほう」
知美の横に座った辰夫に今度は知美が擦り寄ってきた。
「お母さん、Mなの」
辰夫は、持っていたコーヒーカップを置いた。
「わたしが小学校5年生くらいだったかな、随分ひどい喧嘩をしてたことがあるの。お母さん、裸だった。背中や腕に、なんか痣がいっぱいあって、パパが怒ってた。これはどうしたんだ?って…。そのときは、怪我してるお母さんが泣いて謝ってるのに、ひどいと思って。それからずっとパパと口をきかなかったの。パパに悪い事しちゃった」
「見てたのか、それを?」
「こっそり覗いたの。お母さんは、そのことをわたしが知らないと思ってる」
「知美、飯は?」
聞いてどうにかなる話でもない。
どうにもならない話をつきつめるとろくなことにならない。
辰夫は、話を打ち切ってキッチンに向かった。
「食べてないけど…」
「作るけど…手伝うか?」
「作るの?先生が?マジ?」
「なんだよ」
「わたしが作るよ。わたし料理得意だから」
知美も立ち上がった
「お前、料理できるの?」
「何よ」
「いや、別に…」
「何を作るの?」
「カレー」
「カレー?」
知美は吹出した。
「おかしいか?」
「大の大人が仕事から帰ってきて、ひとりでカレー作るのって…、ごめん、ちょっとうけた」
「そうかぁ」
「怒んないでよ。料理は本当に得意だから、わたしに任せて」
「そう。じゃぁ、頼む」
「お前、着替えるか?」
知美の格好は部屋でくつろぐものではない。
何よりスカートから伸びた生足が寒そうだ。
「着替えるって…、何に?」
辰夫は、買ったままでまだ店の袋に入ったまま出してもいないスウェットの上下を取り出した。
「新品?」
「買ったまま、忘れてた」
「ばかじゃん?」
「俺、風呂に入るから、着替えな」
辰夫は、知美が着替えやすいようにバスルームに入った。
買ったまま忘れてたのは辰夫ではない。
別れた彼女が、辰夫のところに置き忘れていったものだ。
(まずい。サイズが、合っちゃうなぁ)